正しく生きるための実践マニュアル

「自分を生きていない」と気付いた人の為の道標が、今ここにある。

学問のすすめ

日本は敗戦の反省で、
国民のすべてに学問が必要だ。
となった。

すべての国民は学問をする義務がある。

学問とは、人の言うことに、無抵抗に、
いいなりになるのでなく、自分で考える力、
ということ。

知らないことには、ついつい
言われたまま、鵜呑みにしてしまう。

追跡調査をする手間をかけたくない。
となるからでしょうか?

しかし、自力で検索し、自分の頭で考える
ということをしていかないと、ウッカリ騙される。

学問は、学校で学ぶことではなく
日常で、常に疑問を持つことから
始まるのかもしれない。

これは本当なのだろうか。
これはどういうものなのだろうか。

労を惜しまず。
探求し続けることが大事。

知っている「つもり」だけ

話をしていて、「こいつ自分のことしか言わない」と
感じたりすること、あります。

進んでいる方向が違う。というか
話が、噛み合わない・・・。

そんなとき、面白くない~
と、話を続ける気も、聞く気もなくなるけど。

結局、相手の状態を、本当には知らないから。
相手の心の位置がわからない。
ってことじゃないかな。

たとえば、相手の日常生活が、どういうものなのか。
本当には、なにも知らない。

自分がこうだから、相手もこんなものだ
と思い込んでいるだけ・・・。

もし、ナマで知っていたら、違う表現が出てくる。
相手の心の近くに。
相手の心に伝わる。
実感できないから、すれ違う。

知らないことを、知らないで
「こういうものだ」
「この人はこういう人」
を前提に話しをするから
自分の世界だけで、空回りする。

自分だけで納得して
「これだけ言っても、なぜ伝わらない」
なんて思う。

たいてい「噛み合わない」のは、
相手のせいじゃない。

潔く死ぬ・・・とは

人と関わる。
その人がどういう人なのか、
何を言いたいのか、
それでどうしたいのか。は、
瞬間瞬間生じていること。

会話の中で、それとなく、
伝わってくるもの。
そのときの、ナマのもの。

営業マンなら、目的があって、
辛抱強く関わることが重要なのですが。

どうしたら、この人に買ってもらえるか。
試行錯誤しちゃうわけ。

しかし
関わるか関わらないか、
どの程度関わるかなど、
目的のない場合の関わり方は、難しいですね。

 

あるいみ「明日はない」関係でもあるように思います。
「いましかない」ものであって。
「次が確実にあるものではない」のですね。

だから~ホントに「次がある」のは、
ありがたくもある。

形を代え、人を代え、場を代えて。

 

失敗することを、恐れなくていい、
ということですから。

過去は「ない」と潔く生きることでしょう。

諦める人には、何も起きない

金がないから何もできないという人間は、
  金があってもなにも出来ない人間である。
             by 小林一三

 

「お金がないから何もできない」と

言うのは、極端でしょう。

 

お金がないと出来ないことは、あるよ。

ないなら、ないなりのことをする。

普通は~そんなもんでしょ?

 

でも、あえて、そう書くのは

最初から諦める人へのエール。

夢をみなさい。

夢は叶うよ。

というエール。

人のためは、自分のため

怒りっぽい人は・・・・・
押し付けてくる人は・・・・

こんなふうに、心理説明の
情報は、あふれております。

ふむふむ。そうか、そうだから
「あの人は」
ということになります。

この人は、こういう性格だ~とか、
こうなっていると分かると、
被害を受けている場合には
その人に変わって欲しい
と思うことがあります。

で、貴方の場合は、こうだから・・・
とやる人もいますが。

だけど、こういう人だから~
は、自分の学びなのね。

それなら、このような対応をしよう・・・と、
自分の行動を変えることの方が、
関係を壊さないで、良い関係を作れるようになる。
と私は思います。

人に当たるより、自分をどうにかしろよ。

~~ってなことですね。

操作を手放す

わたしたちが人との関係で、
なにを見ているのでしょうか、

なにを聞いているのでしょうか。


その言動自体が正しいか間違いかは関係ない。

 

その人が正直な人と感じているか、でしょうか。
その人が自分に対しても嘘を言わない人だと
感じでいるから、信じる。

 

無意識に起こる「操ろうとする習慣」から
解放されているとき。
「あなたがいうなら間違いない」となる。

 

わたしたちの思考にある合理性とは。
そこには「自分を操る」という習慣があり
「他者を操ろう」という行動なのだ。

自我の主張

「私は、何も知りません」と言うと、人は喜んで 

「教えてあげよう」と寄って来ます。 

得ようとしないのに、沢山を得ている。 

それこそ、究極の自我の放棄じゃないかしらん? 

 

自我は愚かさを怖れますね。 

知らない自分を許さない・・・駆り立てられるように・・ 

そうやって自我って、肥大していく。のかも。

 

人に「あなたは、こういう人だと知っている」となると 

なーんとなく「いや。それだけじゃなくて」と言いたくなる。 

でも「なるほど、そうですか」というとき、自我の主張は 

ないんじゃないかな~と。 

 

「あなたを教えてあげよう」と近づく人。 

自分の知らない事まで、教えてくれます、ね。 

知識から何からあらゆることを、与えます。

 

「私は、何も知りません」というとき 

「あなたを知りません。教えてください」

となることもある。 

ここにも、自我の主張はない。・・・と思う。