正しく生きるための実践マニュアル

「自分を生きていない」と気付いた人の為の道標が、今ここにある。

火は小さいうちに消す

たとえば、電車の中で足を踏まれて
「痛い!」という体験をしました。

そのとき
「この人は、わざと踏んで謝りもしない」と思った。
としましょうか。

「この人は、わざと踏んで謝りもしない」と、
その人は思いました。。

けれど、思っただけで、事実かどうか、
はっきりしませんよね。

「わざと踏んだのですか?」と尋ねたら、
いろいろと反応はあるでしょう。

また「踏んだ」と気づかなかったから、
謝らなかったのかもしれませんよね? 
謝って貰えていたら、後にまでひかず、
終わったことなのでしょうが。


「わざと」というのは、
もともと自作なのですよね。
これは、完全に創作なのだけれど、
その自作に自分が騙されてしまう。

ただ「踏まれた」だけでは、
被害者として単純過ぎるし
「私の苦しみ」が、軽いでしょ?

なので、わざわざ重くして、
相手を責めたいのでしょう。

のしつけて~というヤツね、、
自作するときって、それによって
得をするからですね。

そこまでしなくていいのに・・・
ということを、やる。
問題は、それによって大きくなります。

自分を知る

心の成長は。自己観察から始まる。

ところが、続かない。

「こんな自分はイヤイヤー」みたいな。

 

いい悪いなく、ただ観察することがポイント。

いちいち判断評価していたら、苦しいのは当然。


しかも・・・世界は・・・狂ってますから・・・。

「えっなんで」「どうしてそうなる」・・。


こんな世界に付き合って狂わないはずはない。って、

つまり、自分もともと何かが狂っているんでしょ?


ある意味、常に自己弁護して暮らさなければならない。

のトコに入り込んで。。

そんなことは、できない~となりますか?。

そういうのを「こんなことを考えているんだ」

「そこに囚われがある」とかを、

面白とい思えなければ、続かないね。

 

本来は、自己発見するというのは

楽しいものなのです。

「合図」があったのに

ひさびさに・・・失敗しました。

丁寧に対応していれば
失敗することはない。

いつものことながら。
後悔すること、しきり。

まあ、どうしてそうなるのかは。
案外、自分で分っている。

分っていながら「しない」ことがある。
ので~失敗ループに入り込むのです。

私の失敗ループの始まりは「思いこみ」。
そして「したくないことからの逃避」です。

「したくない」から、気をつけていれば
相手からのメッセージがあることに気付く。

気付けば、思いこみで走りだしている
ことから、転換ができるのです。

思い込みは、すでに、自分本位に
状況を判断して解釈して
行動しようとしている。

のだ。

「したくない」から、自分本位。


取り換えせる失敗と
取り返せない失敗は、ある。

さらに、失敗したから成長がある。

(強がり・・・です)

幸せは人生のフロク

思うようにならないから攻撃する。

傷つけられたから仕返しする。

振られたから、殺した。

わけわからん事件がおきている。


まあ・・・我慢が足らんなぁ。
と言えることではあるけれど。

この世は、自分の思うように
ならないものだ。

そこは、基本でしょう。

思うようにしたい。
そこにあるのは依存。

誰かが自分を幸せにしてくれる。
と・・思っていませんか?


幸せは人との関わりで起きてくる。
のだけれど、それは附録のようなもの。

思考と感情

紀元前後のローマ帝国にルキウス・セネカという

哲学者がいました。

「問題になるは量あらずして質なり」。。

これが彼の残した言葉です。

見えるものの・数値化したもの。

これが「量」。量は比較を生む。

見えないもの・数値化できないもの。

これが「質」。つまりは感性の問題。

 

脳(認知脳)は、自動的に、動く、

という機能を持った装置でしかない。


最近、しゃべるロボットが作られましたが、

まったく人間の脳の模倣なんですよね。


ああなったら、こうする。こうなったら・・こういう時は・・・。

上手くプログラムされています。

 

ロボットも、感情を持つ。
と思いたい人が、感情を持つロボットの

映画を作る。のでしょうか。


そういう映画が、たくさんありますよね。


それは、この宇宙に、人間と同じ生物がいる。

はず・・・と思う心と、同じでしょうか。

諸人こぞりて

妹がイエスの足もとに座り、じっと聞き入る。
・・・その姿を見て、姉は「自分のように、
奉仕しするよう働きなさい」と言います。

女が、イエスの足に香油を塗るのを見て、
ユダは「そんな高価なものを塗るより、
そのお金で貧しい人に奉仕しなさい」と言います。

そうやって責めることで、我こそ正しい、
と主張する。が

イエスは、妹には、そのままでよい。と言います。
女にも、塗るのに任せます。

イエスに恩赦を与えるか? それとも、
・・・と問われて

イエス・・・それは自分の中にある輝きの象徴。
それを、殺すことを大衆は選択しました。

直観的に「これがすべきこと」と
分っているのに。

想いのままに、動きたいのに。

どれだけ、私たちは、
自分を抑圧してきたことでしょう。

損得計算で、自分の命の輝きを
抑えつけて生きてきたでしょう。

「神」はいるのか?

「神」はいる。。
「神」なんていない。

さまざまなご意見があります。

こういうのは形式的なこととして、
あることになっている。
「神」とかね。

でも、なんでしょうねぇ。
人には、どうしようもないことがある。

被災とか・・・。
誰を恨むでもないことに対する畏れ。
呪いたくなる思いを昇華させる。

そこに「神」を持ってくるしかない。
ようにも思います。

「アンタが悪いのよ!!」
ということでもなく。
それを、受け取るために。

 

逆に、豊穣などの喜びを、
歓びに変える心情。
あふれ出る感謝。

そこにも、「神」を持ってきたくなる。
「生まれてよかった」「生きてきて、良かった」みたいな。

形式として宗教感になってしまうけれど。

 

神・・・それは「理想」として、
追いかけるものではなく。