潔く死ぬ・・・とは
人と関わる。
その人がどういう人なのか、
何を言いたいのか、
それでどうしたいのか。は、
瞬間瞬間生じていること。
会話の中で、それとなく、
伝わってくるもの。
そのときの、ナマのもの。
営業マンなら、目的があって、
辛抱強く関わることが重要なのですが。
どうしたら、この人に買ってもらえるか。
試行錯誤しちゃうわけ。
しかし
関わるか関わらないか、
どの程度関わるかなど、
目的のない場合の関わり方は、難しいですね。
あるいみ「明日はない」関係でもあるように思います。
「いましかない」ものであって。
「次が確実にあるものではない」のですね。
だから~ホントに「次がある」のは、
ありがたくもある。
形を代え、人を代え、場を代えて。
失敗することを、恐れなくていい、
ということですから。
過去は「ない」と潔く生きることでしょう。
諦める人には、何も起きない
金がないから何もできないという人間は、
金があってもなにも出来ない人間である。
by 小林一三
「お金がないから何もできない」と
言うのは、極端でしょう。
お金がないと出来ないことは、あるよ。
ないなら、ないなりのことをする。
普通は~そんなもんでしょ?
でも、あえて、そう書くのは
最初から諦める人へのエール。
夢をみなさい。
夢は叶うよ。
というエール。
人のためは、自分のため
怒りっぽい人は・・・・・
押し付けてくる人は・・・・
こんなふうに、心理説明の
情報は、あふれております。
ふむふむ。そうか、そうだから
「あの人は」
ということになります。
この人は、こういう性格だ~とか、
こうなっていると分かると、
被害を受けている場合には
その人に変わって欲しい
と思うことがあります。
で、貴方の場合は、こうだから・・・
とやる人もいますが。
だけど、こういう人だから~
は、自分の学びなのね。
それなら、このような対応をしよう・・・と、
自分の行動を変えることの方が、
関係を壊さないで、良い関係を作れるようになる。
と私は思います。
人に当たるより、自分をどうにかしろよ。
~~ってなことですね。
自我の主張
「私は、何も知りません」と言うと、人は喜んで
「教えてあげよう」と寄って来ます。
得ようとしないのに、沢山を得ている。
それこそ、究極の自我の放棄じゃないかしらん?
自我は愚かさを怖れますね。
知らない自分を許さない・・・駆り立てられるように・・
そうやって自我って、肥大していく。のかも。
人に「あなたは、こういう人だと知っている」となると
なーんとなく「いや。それだけじゃなくて」と言いたくなる。
でも「なるほど、そうですか」というとき、自我の主張は
ないんじゃないかな~と。
「あなたを教えてあげよう」と近づく人。
自分の知らない事まで、教えてくれます、ね。
知識から何からあらゆることを、与えます。
「私は、何も知りません」というとき
「あなたを知りません。教えてください」
となることもある。
ここにも、自我の主張はない。・・・と思う。
自分で自分を知らない
いつもの自分は、相手が誰だろうと、どういう場所だろうが
無関係に現れるんですね。
そんなふうに考えると、問題が起きると私があらわれる。
なんてものでなく。それは自分が意識できるだけで。
いつだって、他人から見ると
「アンタは、いつだってアンタを主張しているよ」となる。
多くの人が、話上手だから、人との関係は得意だと思っている。
対人関係のポイントが、聞く力にあることを知らない。
相手の反応は、次の自分の反応を生み出す。
行ったり来たりしながら、好意が高まったり悪意が高まったり。
小さな頃、友達と喧嘩して
「もうキミとは、遊ばない!」と悪態ついて・・・
このパターンって、大人になっても、使っていますね。
私も、これが適切だと思ってしたことが、相手には通じて
いなくて「なんだ、この人??」となって。
人によっては「ありえない~」となるのでしょう。
ただ「こう思った」は、どう表現するか、
決まっていなくて自由にやっていいことで。
自己観察はエゴ観察
ある人の、ある日。
向こうから来る人。
挨拶しようか。
どう声をかけようか。
無視されたら、イヤだな。
このように。自覚なく自分の思考・感情を、
ゆるぎなく見ていますよね。
こんなのは、どうだっていいこと?
じっさい。
挨拶するか・しないか、タイミングを
どうしようとか。な~んてことない。
しかし、丁寧に。
そう考えている「自分を見ている」。
自分をみていなければ、こういう、
どうでもいいことを
覚えていることもない。
覚えているから、後から、色々と
自分を振り返り、検討できる。
のですね。
私としては、こういう話を聴いているときも、
自分をうっすら意識しています。
自分のエゴで、相手の話を自分の都合の
良いように解釈してしまわないように、と。
自分のエゴが活動していないか、
観察する。みたいなことね。
習慣・自動操縦で動いていれば、
ラクチンですが。
自分が不利になるようなときは、
エゴは、動きますよね。
エゴっていうのは、生命活動の一環
でもありますから、自分を守ろうと
するのは当然。
オシャカサマに近いくらい~の
悟りの境地に入っていれば、
思考の工作を見抜きますから、
動じないでしょう。
けれど、日々~色々とある現実に対応するとき、
恐怖に負けそうになることも、あるのよね。
それに負けるか、気づいて解放していくか。
だから学びは、一生のこととなってるんですね。